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和泉式部(5)恋について

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和泉式部(5)恋について

また、和泉式部に戻ってきた^^。
今回は、其の五になる。
と、言っても、風来坊で風の吹くまま気の向くままに、あっちの駄菓子屋、こっちのカフェと、また寄り道ばかりになりそうである。


和泉式部の艶歌に、今日こそ辿り着けるのであろうか。
なにかのっけから、無理っぽい気がしてきている^^。


「世の中に 恋といふ色は なけれども ふかく身にしむ ものにぞありける」
「人の身も 恋にはかへつ 夏虫の あらはに燃ゆと 見えぬばかりぞ」

勅撰集「後拾遺和歌集」の中に幾つかの和泉式部の恋の歌が載っているが、私は、この2首があまりにも対照的なのでどちらが本当の和泉式部であろうかと、若い日に読んだとき考えた記憶がある。

今思うことは、おそらく、この相容れない弱さと強さの想いが和泉式部の恋という概念であったのかもしれない。
もちろん彼女が詠んだ時の年齢にもよるが。
身を時の感情のまま委ねる。ただただ、恋にではなく、自分自身に正直で情熱的な女性だったのだろう。

最初の歌は、実に淡い歌である。今の世でも、男女関わらず誰でもが感じているものではないだろうか。
※世の中に恋という色はないけれど、深く私の身に想いという色が染みてきます。

それに比べて、次の歌は、酸いも甘いも知り尽くした以上に恋に執念を感じてならないのである。
※この我が身を、恋のためにすべて犠牲にしてしまった。炎の中に飛び入った、蛾のようなもの。ただ、誰の目にもこれは見えないでしょう。

蝶でなく、蛾と自分自身を喩えているのである。
夜行性の蛾に自分自身を置いてしまうこの女性に強さをやはり感じてしまう。
そこが、私の好きでたまらないところなのかもしれない。


そういえば、平安文学を読み始めたころ、和歌の中に「恋」という言葉が当時からあったことに驚かされた。
中学高校で「恋」を含んだ歌を習ったかもしれないが、あの頃は、古典なんて所詮受験勉強の科目の一つだったからどうでも良かったし、それに気を止めることもなかった。
それが、和歌と言うものに興味を持ち、読み始めたときに、言葉の一つ一つに惹かれていくようになった。
「恋」という字が含まれて詠まれた和歌に、ことさら当然のように惹かれていった。

「こい」と言う言葉は、平安時代それよりも前からあった。
万葉集では、「恋」ではなく「孤悲」と表現している歌が少なからずある。

山部赤人の万葉集の1首がある。
教科書などは、漢字とひらがなを併せたものを歌にしているが、万葉集はもともと漢字ですべて書かれていた。

「明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲尓不有國」

この歌にも「孤悲」という漢字が見えている。

訓読みは、
「明日香河 川淀さらず 立つ霧の 念(おも)ひ過ぐべき 孤悲にあらなくに」となり、
※飛鳥川のよどみにいつも立ちこめている霧のようにはかなく想いが消えていく孤悲とは違うのです。それはそれはもっと深いものなのです。

となると思うが、この歌の意味が問題ではなく、山部赤人もまた「孤悲」を使っているのである。

多くの解釈本は、「孤悲」のところを、現代に使われる「恋」として意訳しているが、果たしてそうなのであろうか。山部赤人が、「ひとりぽっちで悲しむ」で「孤悲」と表現したのであったとしたらどうであろう。
私は、それが常識になりつつあることに大きな懸念を抱いている。

と、平安文学学者や古文研究家でもない私が言ったところで、戯言にしかならないであろう^^。

横道にちょっとずれるが、ってもう十分にずれていて、早く元の道に戻らねばと思っているが、なかなか障害物があって、自分で書いているのに何故か、戻るのが遅くなってしまいそうである。

そうそう、ひらがなが出来たのは、平安の初めである。それより以前は、万葉集などのすべての書物が漢字で書かれていた。
ひらがなが、公的な書物に現れたのは、あの「古今和歌集」が最初なのである。そして、その選者は、紀貫之である。
その紀貫之が「土佐日記」を女性の振りをしてひらがなを用いて日記を書いた。
日記と言っても、「土佐日記」は虚構を交えての作品であり、日記と言うよりも文学書なのかもしれない。
ただ、土佐で娘を亡くしたという悲しさ故に、事実だけを書き連ねていくことができなかったと思うと、余興交じりのあの書が、私には紀貫之の金字塔の書なのかもしれないと思うのである。

女性が使うものとされていたひらがなを、何故あの紀貫之が「土佐日記」で書いたのかと、よく文学談などで話題に出されるが、私は、紀貫之という人物が、漢字というものが、心の奥をどこまで細かく伝えることが難しいのかを知っていたのではないかと思っている。
漢字は硬く、そこに柔らかさを感じることがあまりない。優しさや哀しさ、寂しさをどうしても伝えたいがために、ひらがなを使ったのではないかと思うのである。
それが、紀貫之が、娘をなくした親としてせめてもの娘への供養だったのではないだろうか。
そう思ってならないのである。
タイムマシンが在ったら、一度会って、真意を聞きたいものである。

「恋」、「孤悲」の他に「乞い」から来ていて、何かを願ったり、求めたりする言葉として使われてきたと言われる。
それが、平城、平安の時代に入って変化してきたと昔読んだ何かの文献に書いてあった。

ついでになるが、「恋」を、昔は「戀」と書いた。
「糸」と「糸」の間に「言」を入れて「心」を下に持ってきた。
これを「いとし いとしというこころ」と、けっこう女性が好みそうな解釈をされているが、元来「糸」を使う漢字は、縺(もつ)れるとか絡(から)むとかに使われてきたものである。
だから、糸が2つありそこに心を入れることで、「心が縺れて乱れ、自分を抑えることができない。」それが本当の解釈だと思うのである。

「愛し 愛し と 言う心」と「相手の気持ちがわからず心が縺れて乱れ、どうすることもできない。」、どちらも同じように見えるが、自分本位なのか、相手本位なのか、大きく違うと思うのである。
頑なに否定しようとは思わない。どちらも間違っていないと思うからである。

まぁ、どちらも恋。というよりも、恋そのものが難しいと思うのある^^。


「舟を編む」という映画があった。
2013年公開の映画である。松田龍平と宮崎あおいが主演の、辞書を編纂するという映画であり、私のお気に入りの映画の一つである。

その中で、「恋」の語釈を、「ある人を好きになってしまい、寝ても覚めても その人が頭から離れず、他のことが 手に付かなくなり、身悶えしたくなるような心の状態。成就すれば、天にものぼる 気持ちになる。」
と表現していた。

映画を観ながら、言い得て妙だと感心してしまった。
あの和泉式部が、この語釈を読んだとしたら、どう思ったのであろうか。
また、和泉式部なら、どんな語釈になるだろうか、そう思うだけで楽しくなるのである。


さてさて、そろそろ横道から大通りに戻らなければ、なかなか前に進めないから戻ろうと思う。

「男好き浮かれ女」とまで今の世になっても言われ続ける和泉式部であるが、どれくらいの男性と深い関係になったのであろうか。


というところで、続くのである^^!(おいおい^^)!!
和泉式部(6)こそ、恋の遍歴とそれに纏わる艶歌を書き綴っていきたいと思う。

乞う、ご期待をである^^!!



「君想ひ 眠れぬ夜に 恋を詠む 心騒いで さらに眠れず」


「ひらがなに 心の襞(ひだ)を 委ね詠む 小さなことさえ 君に伝えん」
 


おいおい^^和歌


「ひらがなで 愛しているよと 綴(か)いてみる くすぐったいと 指を払われ^^」(おいおい^^)!!



「恋焦がれ 恋に恋して 身を焦がす そんな自分に 誰より溺れ^^」(おいおい^^)!! 
 




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